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「離苦解脱の道」を考える A 

『今こそ宮沢賢治を読もう』C 『二十六夜』より  《6月26日》





怒りを他者に向けたとしても

この物語の様に罪のない子どもの穂吉が遭遇した不条理、あるいは9.11や3.11のように圧倒的な力の前に巻き込まれ命を失ったという時、痛みを背負った当事者である被害者やその周囲の人自身が、自分の罪のなさや相手の非や、不条理この上ない展開について、どう心が正常に癒されていくことなのだろうと考えたくなりました。

自分を振り返って、実際に怒りや疑いを他者に向けて抱いたときに、どれほど身体自体も苦しいか、実際に変調をきたすか、私だけではなくて身に覚えのある人は多いのではないでしょうか。

両足の骨が折れている強烈な痛みを抱えた上に、人を恨む気持ちの解決が出来ないままだったとすると、どれほど苦しいことになるか想像に難くありません。
その業の炎は自分で作っているから自分で消すしか道がない。ところが相手が平然としているのに、なぜ被害者である自分が変わらなければならぬのか、よい人になってしまっては何か大きな損をする気分さえして、その怒りに身を任せることは魅力的でさえあります。

モノに囲まれながらもまだ足りぬ意識

このたびの震災、津波、そしてその後の原子力発電所の事と以後の対応に関しても、被害にあった人達の苦しみは、この時に、誰かの責任を追及し、責め、罰していけば、必ず無理や矛盾をその相手や周囲にばらまく繰り返しがおきるのでは、という問いかけのようです。

一つの例として、父親が東電に勤務しているという中学生が、東電のせいにするのはおかしい、という声を上げたことがラジオで報じられていました。
声を上げない人たちの中にもそのような気持ちは結構あるんじゃないか。
なぜ東北や日本海側で原発銀座と呼ばれるほどに原子力発電所が並んでいるのか、そしてなぜ私たちはこれほどモノに囲まれて、お金がなければ何か足りないかのような気になってしまうのだろう。

社会の流れの中で作られた意識に流されたまま、自分を振り返ることなく他者を責め、怨みをぶつけていくことでもない。逆にただ事実を受け入れるだけでは人間とはいえないでしょう、それならば本能に忠実な動物たちの方がもっとやすやすとやってのけられる。

自らの生き方を問い直したとき…

そうした身の内にある善業悪業、なべて客観化してみるときに、何が見えるだろうか。

フクロウの和尚さんの法話で、もしかすると穂吉は穂吉自身も無邪気に小さな命を啄んで遊んでいる姿を認めたのかな----。
今の私に引き付けて考えれば、東北大震災以後の動きの中で、環境は自分が作ったものではないにしろ、その中でいかに無邪気に電気をむさぼり消費に酔っていた存在であったか認めたときに、少しずつ公正さに近づきながら、初めて本当の解決の道を見い出せる入口に立つのかもしれない。

認めたからと言ってすぐに総てが正されるほど自分たちは出来上がっても居ない、まさに俗世の衆生だと認めることから、誰かを悪者にしないで、またヒロイックな行動やボランティアが正しいとまたこれを人に求めることから脱して、間違いの起きない社会を志向し、実行できる人間としてスタートできるのではないか。

穂吉の最後の笑顔は、生きる最後の瞬間に、自分を愛する大人たちが生き方を自ら問い直そうとする中にあって、自らも自分を認めた中で自ら招来した穏やかなものだったのではないだろうか。
二十六夜の黄金の月と紫の雲は、そんな穂吉の心の景色かもしれない、そんな気がしています。

  片山弘子

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