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A 社会の怒り・憎しみと向き合うには‥  

@ A

わたし映画レビュー『憎しみ』(カソヴィッツ監督・1995年・フランス)
いわたたかし


若者の暴動シーンがオープニングで流れる。
これは1994年1月にルアンで起こった暴動のシーンを撮影したものだという。
バックにボブマーリーのレゲエミュージックが流れる。

             

貧困街に住む移民2世の若者3人が主人公。
映像はモノクロ



ユダヤ系のヴィンス。
アメリカ映画『タクシードライバー』と同じシーン。「ガンつけんじゃねー」



アフリカ系のユベール。ボクサーで物静かな性格。


アラブ系のサイード。

移民の貧困・差別問題

映画『憎しみ』の映像は、華やかで美しいフランスのイメージとは対極の暴力・貧困・スラム街といった人種が混在するアメリカを映し出しているようだった。1995年の公開で、現代のフランスを表す一つの側面だという。
解説では、大嶋さんは「これが現実です」と何度か口にした。

その解説を要約すると―
フランスでは、1930年から大量の移民を受け入れはじめた。第一次世界大戦で560万人もの死者を出し、労働不足を補うため270万人を受け入れたという(当時の人口4100万人の6.5%にあたる)。
第二次大戦後も、隣国からの亡命者を積極的に受け入れた。ここまでの移民はフランス人としてのお墨付きがもらえたが、1970年代からは、移民に対してランクを下げられる。仕事も、低賃金で重労働な職業が与えられた。そして住居は、パリ郊外に移民の住む低家賃の団地が作られる。
現在の失業者数も、移民の方が高く、フランス人の失業者の2倍という不利な状況がある。
ここに現代フランス社会が抱える、移民の貧困・差別といった問題がある。
とくに1980年代以降から移民2世の若者たちの暴動が頻発している。

こうした問題を映画化した作品でもある。
その監督マチュー・カソヴィッツの出自を聞けば納得する。
監督自身が移民2世なのだ。監督の父親はユダヤ系ハンガリー人で、1956年のハンガリー動乱時にフランスへ亡命してきた。これは現大統領のニコラ・サルコジもユダヤ系ギリシア人を母方に持つハンガリー移民2世で、いくつかの共通点がある。
「マチューカソビッツもサルコジもアメリカ好みです」と大嶋さん。
映画『憎しみ』には、いくつかのアメリカ映画のワンシーンがアレンジされている。音楽もボブ・マーリーのレゲエミュージックがオープニングに流れ、アイザック・ヘイズのサザンソウルも使われる。
自由の国アメリカへの憧れだろうか?

若者たちの叫びが轟く

映画は、暴動のあった翌日の丸1日を三人の若者の行動を追っていく。パリ郊外の貧民街で暮らす移民2世の若者たちで、ユダヤ系のヴィンス、黒人のユベール、アラブ系のサイードの3人が主人公。
「俺は今の暮らしにウンザリなんだよ。クソみじめな暮らしを変えたかねえか?」
ヴィンスが仲間にぶつけるセリフだ。
自分らの境遇に不満を持ち、世間や警察に対して怒りを募らす。
警官がなくした拳銃をヴィンスが拾ったことをきっかけに物語は展開する。
結末は、あまりにも衝撃的で、彼らの抱える憎しみや苦しみをそのまま観客に投げかけてくるようだ。
オープニング、二人の会話、エンディングと3回も同じ言葉が使われる。
「ビルの50階から飛び降りた男の話」の引用だ。
「問題は落下ではなく」「着地だ」と言う。
どう着地したらよいかを投げかけるが、50階から飛び降りたら着地など出来るはずがない。
エンディングでは、「それは落ちた社会の話」と語られる。

映画の着地は、銃声の轟きとなった。銃声は彼らの悲痛な叫びにも聞こえてくる。
残音だけが耳に残り、やり切れない気持ちがいつまでも漂う。
誰にも聞き入れられずに宇宙を永遠とさ迷う慟哭のよう。

「一つの解決策など提供していません。彼らの現状を率直に描いている映画です」(大嶋)
ヴィンスが拳銃でスキンヘッドの男を撃とうとするシーンがある。怒りを込めて拳銃を突きつけるが、そこまでだ。
「ヴィンス自身、人を殺せるよう人ではない。根っから優しい」(大嶋)
しかし、映画の結末では、いつもヴィンスをなだめていた黒人のユベールが、その引き金を引くことになる。
「こういう状況をつくっているフランス社会。これも現実なんです」(大嶋)
個人の中に鬱屈する怒りや憎しみは、社会という大きなシステムの過ちから生まれた膿のようなものか。やがてそれが蓄積され爆発する。

誰もそんな状況に自分を置きたくはないだろうが、決して他人ごとには出来ない。もし自分が同じ立場になったとしたら‥‥。

若者たちの心に耳を傾けようとするならば、何が聞こえてくるだろうか。

少なくとも映画という媒体を通して伝わるメッセージからは、怒りや憎しみといった悪感情は湧いてはこなかった(記者自身には)。かといって同情や共感があったわけでもない。いつまでも消化できずに体内に保有したまま鳴り響いている。

監督自身、この不条理な現実と向き合うために、『憎しみ』を製作したのではないだろうか。 怒りの感情を直接ぶつけたら暴力になるが、映画にすれば、聞く人が現れ、思いが伝わるから。(記事:いわた)

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