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愛するが故の殺人は許される?

映画レビュー『死刑台のエレベーター』(1958年、監督ルイ・マル
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いわたたかし

オセロに例えれば、最後までひっくり返せないままの石

オセロゲームを楽しむように、挟んではヒックリ返し、また、ひっくり返され、場面が次々に展開され、ハラハラづくみのサスペンス映画。ちょっとこれまで私が見てきたフランス映画とは趣の違う作品だった。
それでも、大嶋さんが取り上げる作品だけあって、単なる娯楽映画やサスペンス映画ではないな、と感じはしたが、やはり、映画の意図を探っていくと思わぬ仕掛けに出くわすものだ。
私が感じ取ったその巧みな技巧を少しでもお伝えできればと思う。

「愛している。だからやるのよ」

現代社会の中で私たちは、多くの矛盾やジレンマ、不合理と葛藤しながら生きている。欲望と現実、どうにもならない歯がゆさ、そうした人間心理をサスペンス映画という形に凝縮し、不安と緊張を抱かせつつ不安定な心理状況を映画に描き出した作品であると私は見た。

つまり、映画の中での不安や緊張は、社会の中で常に私たちが晒されている不安定な心理状態を意味していると。

 愛の言葉をささやくフロランス

映画の冒頭、女性フロランスの顔がスクリーンいっぱいに映し出されこう呟く。
「愛している。だからやるのよ」
彼女は電話先のジュリアンへ告げる言葉だ。「やる」とは、殺しを意味している。彼女は大企業の社長夫人で、その社長の部下であるジュリアンと愛し合っていた。だから邪魔な夫を殺してしまえ、財産共に頂こうというわけだ。二人は自殺と見せかける完全犯罪を目論む。
映画はすかさず犯行シーンとなり、観客をドラマの中に引きこんでいく。登場人物の葛藤を織り混ぜながら進行する。
ジュリアンは社長を予定通り殺害するが、思わぬハプニングでエレベーターに閉じ込められてしまう。フロランスは、約束通りに来ないジュリアンに疑心暗鬼となり夜の街を彷徨う。この間、ジュリアンの車を、若いカップルが盗み、ドライブへ。二人はドイツ人旅行客を成行きで殺害してしまう。ジュリアンは、エレベーターで一晩過ごし、ようやく抜け出すが、ドイツ人殺害容疑で逮捕されてしまう。ところが、自分のアリバイを証明できない。
そんなジュリアンを助け出そうと、フロランスがドイツ人殺害事件の犯人を見つけ出そうと動き出す。二つの事件はカメラに残されていたネガフィルムの発見によってすべてが明るみになり収束する。結局、ジュリアンとフロランスの「愛」は結実せず、二人は夫殺害容疑で刑に処せられる身となる。

殺しを正当化してしまうトリック


「愛している。だからやるのよ」
冒頭のこの言葉を私は自然に受け取っていた。
愛がすべて、愛のためならば、何もかも許される、そんな錯覚さえ与える言葉に。
愛する二人が結ばれるためなら、人を殺してもいいのか、それはおかしいと思いつつ、無意識にも私は二人を見守る立場になっていた。

ジュリアンが社長を殺す場面では、拳銃を突きつけ罵倒する。
「戦争を馬鹿にするな。メシの種だろ。インドシナで儲け、今度はアルジェリア。戦争に感謝しな。お陰でお家安泰だ」
ジュリアンの会社は戦争をメシの種にずいぶん儲けているようだ。こんな言葉を耳にすると社長の殺害に正当性を感じてしまう。社会悪の根を断ち切るための犯行のようで、社長を悪党に見てしまう。
ここにも当たり前に殺人を容認してしまう自分がいることにはたと気づかされる。それは映画だからだろうか? 平和のために戦争し人殺しを正当化させてしまうトリックのようにも思う。ジュリアンだってその会社から給料もらってるんだろ?そういうジレンマもある。

こうした不調和を起こしながら話は進む。

 困惑するフロランス

犯行後、フロランスが、約束のカフェでジュリアンを待つ場面。ジュリアンの車を目にするが助手席に若い女性を乗せ走り去ってしまう。フロランスはジュリアンを急に不信がる。「撃たなかったんだ。臆病もの」と。その時の真実を知る私たち観客の心情はもどかしいばかりだ。

ドイツ人殺害の容疑で取り調べを受けているジュリアン。最初は、犯行時刻は酒を飲んでいて覚えていないと嘘をつく。警察側の執拗な尋問に屈して、実はエレベーターに閉じ込められていたと白状する。真実を打ち明けてみたものの、それは一人で密室にいたばかりに誰にも証明できない、そんなもどかしさ。

エレベーターに閉じ込められてしまう場面も、若いカップルが気さくなドイツ人旅行客を殺害してしまう場面も、その二人が犯行を苦に心中する場面も…

いくつもの、「もどかしさ」を引き摺りながら進行し、やがて、その「もどかしさ」は後半一気に解消されていく。黒く埋め尽くされたオセロ版を白くヒックリ返すように。ところが、最後、一つ残る黒い石、それがフロランスとジュリアンの愛の行方だった。はじめからこの石だけは返せない石だったのだ。

絶望に沈むフロランス

最後のセリフだ。
「私は眠り… 眼をさます ひとりで。 10年…20年… 私は冷酷だったわ でも愛してた あなただけを 私は年老いてゆく でも二人は一緒 どこかで結ばれている 誰も私たちを離せないわ」

愛するが故の行為、犯行、冷酷さ、それは、観客である私たちにもある種の説得力を放っている。刑事でさえどこか悪者に仕立て、フロランスの悲しみに同情してしいる自分がいる。
現代社会の中でこの漠然とした「もどかしさ」をもし感じているとしたら、そこにはまだ知らない「真実」が潜んでいるのかもしれない。
フロランスとジュリアンの愛は最初から変わらずにあるのだから。(いわた)

追記・雑談 
どうも欧米文化の「愛」に対して、私は若干の偏見がある。映画『男と女』の二人の愛、『髪結いの亭主』で描かれた愛、『グランブルー』の愛、『トリコロール/赤の愛』、… 愛は絶対で、神のような存在・印象を持っている。

「死」についても――
『さよなら子供たち』の二人の友情を引き裂く突然の別れは酷い。『フランス革命』のギロチン刑も。『憎しみ』の拳銃も、自分が撃たれたようだった。そういう別れや死に方の無念さを思う。今回の映画のように、当たり前に受け止められる死もある。何だろうこれは?


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