日本人のふるさと観を探る
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小学校の卒業文集を読み上げる
生きることは、物語をつくること
『生きる物語―自分が自分らしく生きるために』
児童文学者 牛丸仁さんの講演会開催 《7月10日》
「日本人のふるさと観を探る」「今こそ宮沢賢治を読もう」などSCSでシリーズの講座を担当している児童文学者・牛丸仁さんによる講演会『生きる物語―自分が自分らしく生きるために』が、7月10日、当館で開催された。
先生は、30代の頃、信州大学付属小学校で教師をされ、その時代の教え子たち10人(男子6人、女子4人)が各地よりここ鈴鹿に集まり前日から同窓会が持たれていた。当館の坂井さんもその一人だ。講演会には近隣の人たちも参加した。
その時の様子を宮地昌幸さんが自身のブログに綴っているのでここに紹介したい。また、講演会はユーストリームで配信されている。
小学校の卒業文集を紐解くと
「いやあ、昨夜は教え子たちが牛丸記念館を建てるみたいな話も出て、興奮して、2時ぐらいまで、寝付けなかったんだなあ…」牛丸先生の語りが始まった。
「前半は、理屈っぽい話になるけど」と前置きしながら、「生きることは、物語をつくること、物語をつくるというのは生きること、言葉をもった人間にしかできないんだあ、これは…」と、つなげた。
人が物語をつくって成長していく段階を、
1、無物語期(幼児時代)
2、物語準備期(小学校時代)
3、物語草創期(中高時代)
4、物語自立期(成人時代)
5、物語週末期(高齢者時代)
に分けて、語られた。
小学校時代のくだりでは、先生は「ねずみもち」という小冊子を掲げて、「これは今日ここに来ている教え子たちが書いた、小学校卒業するときの文集です。自分が30歳になったとき、どうなっているか描いてみようというタイトルなんですね…」と言いながら、そのうちの二編を読まれた。はじめは、名前を言わないで読む。「ぼくは、電気技師になっている。中年太りになっている」みたいな内容。牛丸先生、教え子に「自分が書いたと言える人いない?」と聞く。だれも、応えない。先生は、その子の名前を言った。その方は、いまは電気技師ではなく、大学教授。中年太りというよりは、どちらかと言えば細身の人だった。会場はなごやかな笑いに包まれた。
中盤で、テイータイム。
文学への開眼
「子どもの頃、親から、おまえは家の子じゃない、橋の下から拾ってきたんだと聞いている子が、結構いたんだね。ぼくの友達で、それを高校生の頃まで信じていた奴がいた…」
いよいよ、牛丸先生らしい語り口で、先生ご自身の物語が語られた。
牛丸先生は、出生直後、実の親から手放されて、親類ともいえない家庭に預けられ、そこからまた子どものいない夫婦のところに引きとられるという経緯があったという。「5歳までの自分がどうだったのか、空白なんですね」と述懐された。この空白が、牛丸先生にとって、生きる物語の核心になるのかな。
木曽の小学校を卒業するとき、担任の先生が県立中学校への進学を熱心に勧めてくれた。それだけの余裕がないと思っていたが、先生が育ての親を説得してくれた。このとき、教育がどんなものか、その先生を通して、受けるものがあった。
高校生の時、校長室を掃除していた時。威厳のある校長先生から、壁に掛かっていた額の島崎藤村の手紙読んでみろと声かけられて、縮みあがったそうな。読めるはずが無い。校長が読んでくれた。
「誰か旧き生涯に安ぜんむとするものぞ。おのがじし新しきを開かんと思えるぞ、若き人々のつとめなる。生命は力なり。力は声なり。新しき言葉はすなわち新しき生涯なり」
これが、先生の文学への開眼になった。
「奨学金をもらって、教育と文学がやれるのは、信州大学教育学部」と周囲から聞いて、受験。筆記試験では、数学は零点、国語は満点だったとか。駄目だとあきらめていた。面接というものが3回あった。2回目、花を見せられて「これは、なんだ」と問われた。はて、わからない。「なんの花かわからない」と正直に答えたら、面接官が「そうだ菜の花だ」と膝をたたいた。正解を答えられたのは、牛丸先生一人だったとか?「こんなことが、あるんですね、合格したんですよ」
授業中は教室の隅で
大学の後は、中学校の教師を希望していたのに、偶然に諏訪の小学校の教師に配属になった。子どもたちと接して、小学校が病みつきになった。それから、木曽の開田小、上松小、そして信州大学付属小学校。
「旧弊を新たにしていく意気込みでした」と振り返る。
「子どもたちには、今日はこれをやりますと言わないんだな。なにをやるのですかと聞くんだね。授業中は、教室の隅で眠っているです。話が迷路に入ったら、整理してやるんです」
この会に参加していた教え子の女の方が「そうなんですよ、そのころの授業のことを思いだしてみると、先生が黒板の前でなにかしているというのが、出てこないんです。宿題もでない。でも、みんなで、図書館に行って、何を授業でやるか、話し合ったこと思い出します。いまに、それがうーんと影響している」と発言された。
先生「君たちも苦しんだけど、ぼくも君たち以上に準備のために苦しんだね。どんなテーマが出てきても、受けられるように…ただ、眠っているわけじゃなかったんだ」
「5歳までの空白」へは、小説を書くということなどで、向き合った。60歳近くなって、実の母に直接会う機会にも恵まれた。それも、作品という形で、先生のこころを表現されている。「関心があれば、お読みください」と作品集を紹介してくれた。
最終章が出来た!
「そうして、さあ、私の最終章をどうするか、ということになるんです」と一息つかれた。
「死が、最終章ではないんです。今、ここに生きる。自分一人ではない、自分を支えてくれる人がいる。息子、息子の嫁。なにやかやと心配りをしてくれる。自分がやってきた一つの系統の文学をカルチャーカフェで活かしてくれる坂井くん。これは、薬よりも、効き目がある。カルテに病状を書くより、「いつ、講座があるのですか」と聞いてくれる主治医。
抗がん治療はそのあとにしましょうと段取りしてくれる。わたしの講座を聴きに来てくれる人たち。今日は、教え子たちも来てくれて…今、ここで最終章が出来た」
「いま、ここで最終章が出来た」
声音は小さかったけど、はっきり言い切られた。
なぜか、込み上げてくるものがあった。こっそり、まわりを見たら、なにか目がしらを押えているように見える人もいた。
「昨夜、眠れなかったのは、記念館ということもあるけど、実はこの辺が出てきて来てね…」とぽつり。ああ、先生は、いまどんな境地におられるのだろう、余韻がまだ自分のなかに響いている。
(文:宮地昌幸 写真: 中村聡史)