トップご挨拶イベントNEWSお知らせレンタルカルチャーエコ街のはたけてっらこや館内アクセス

過去の記事へ |次の記事へ | NEWS一覧へ



第1回
第2回
第3回
第4回
第5回
第6回
第7回
第8回
次回の予定




































映画『禁じられた遊び』(1952年)
ルネ・クレマン監督
1940年、ドイツ軍の空襲にあい
命を落とす母。娘のポレットは
何が起こったのか、分からない様子。














大嶋さんのピックアップシーン1
フレディ(写真中央)に「フィリップ
の金ならあるよ」と答えるトム。
(字幕では「他人の金ならある」 )
他人の金を使うことに何ら抵抗を
感じないトムの性格を表している。



大嶋さんのピックアップシーン2
フィリップの衣装を来てフィリップ
になりきるトム。鏡に映るのは彼
女であるマルジュを意味している。
決してナルシストや同性愛者では
ない。この点が、原作や1999年
公開の『リプリー』とは違う点だ。


刑事に尋ねられるシーン。
朝日が眩しい。


フィリップの財産を手にする。





様々な目線

波止場でそれとなくトムの動向を
見ている老人たち。「罰当りめ」と
呟く。意外に真実を見抜いている。


銀行で金をおろす場面。
行員からは疑いの目。


銀行で行員に見つめられるトムの瞳。




刑事の目線は鋭い。


フィリップの近所にすむ酔払い


フィリップの彼女だったマルジュ。
その瞳は、いまやトムのものに。






トムが市場で目にする魚たちの瞳

『太陽がいっぱい』―トムの性格とは?@ A

大嶋優のオーシネマ・カフェ 第16回 《6月9日》講座を聞いて
わたしの映画レビュー 『太陽がいっぱい』(1960年、監督ルネ・クレマン)/いわたたかし

感想 吉田さん 船田さん  



        講師の大嶋優さん(関西学院大学フランス語講師)


アラン・ドロン主演の『太陽がいっぱい』。帆船を操るトム。
1960年は映画手法のヌーヴェルヴァーグが席巻していた時代。その中でカラー映画で有名俳優を使いアンチ・ヌーヴェルヴァーグと批判されたという。

◆禁じられた遊びと共通するテーマ

今回より講座名を『大嶋優のオーシネマ・カフェ』に改名し、チラシも大嶋さんの似顔絵を入れて、ちょっと愉快にイメージチェンジしてみた。告知の反響もあって、初参加者も数名来場し、やや緊張の面持ちで第16回目の講座が
始まった

取り上げた映画はルネ・クレマン監督の『太陽がいっぱい』だ。映画『禁じられた遊び』の監督でもある。大嶋さんは、まず『禁じられた遊び』の最初と最後のシーンをピックアップした。



『禁じられた遊び』は1940年の戦時中が舞台である。幼い少女ポレット一家は空襲にあい両親は命を落とす。その時ポレットは両親の死を悲しむ様子を見せない。しかし映画のラストで、母を思い出し、「ママ、ママ」と泣き叫び、雑踏の中に母を探しに消えていく。

「これは戦争批判映画と言われているが、クレマン監督は、子どもの無垢な心を描きたかったのではないか。幼い少女には死というものがわかっていない。ポレットの心の中には母はまだ死んでいない。
 『太陽がいっぱい』の主人公トムの性格を知る上で、『禁じられた遊び』が監督の原点であり、手がかりになっている」と大嶋さんが言う。

トムに殺されてしまうフィリップ

アラン・ドロン主演の『太陽がいっぱい』は、金目当てに殺人を犯し、殺した男に成り済まして財産を奪うストーリー。男の婚約者までも自分のものにしようというサスペンス映画だ。いつ真相が暴かれるかハラハラドキドキの展開とラストシーンの大ドンデン返しに観客を引き込んでいく。
冷徹で狡猾な主人公トム役にアラン・ドロンの美貌が際立つ。ニーノ・ロータの哀愁漂う音楽と照りつける太陽、地中海という舞台、映画の魅力満載だと絶賛したくなる名作だ。

大いなる勘違い

ところが、大嶋さんはこの映画をどう解説したか。
 「主人公トムがどのような性格で描かれているか、そこに監督の主張があるのではないか」と言う。トムの性格が現れているという3つのシーンをとりあげた。
ここが大嶋流だ。奥深いフランス映画だけあって、そこに見え隠れする監督が描き出す人間像に目を向ける。



トムの性格を知る上で字幕による大きな勘違いを指摘した。
その一つがタイトルの「太陽がいっぱい」の意味である。
ラストシーンで、トム(アラン・ドロン)が浜辺で寝そべっているとメイドが
「ご気分でも悪いの?」と訊ねる。
トムは「太陽がいっぱいだ」と答え、次に「最高の気分だ」と言う。



トムは、大金と最高の女を手に入れて、さぞ気分がよいのだろうと思わせる場面だ。「太陽がいっぱい」とは最高の気分を象徴した言葉に受け取れる。
ところが、翻訳家の大嶋さん、このセリフを直訳すると「カンカン照りの太陽だ」。(太陽がなければ気分は最高だ)という意味なのだと。
まったく逆の意味で受け取っている人は多いだろう。実はトムにとって「太陽」はやっかいものなのだ。(映画の中で、トムは太陽に灼かれて火傷を負う。刑事が来た朝も、窓から差し込む陽の光を眩しく感じ、白日の下に晒されることを拒否しているかのようだ)
そしてこの場面は、トムが一番のものを常に欲し、手にしたいという即物的な性格が現れているという。
他の2つのシーンの詳細はここでは省くが3つのシーンから大嶋さんはトムの性格を次のように語る。

トムは、子ども

「トムは、子どもではないか。しかも恐るべき子ども。賢く、人の心を読み取る。しかし、自分自身がまったく分かっていない。人の死、良心の呵責、罪の意識がまったくない。しかし、それがまたトムの魅力となっている」
 アルベール・カミュの言葉である“サメテガール”(どっちでもいいよ)が当時流行した。投げやりで本心が分からないという中味。現代の若者の犯罪にも動機がまったく分からないものがある。なぜ人を殺すか、トムの心情と共通したものではないか。
さて、皆さんは、どのようにトムの性格を見ますか?」
大嶋さんの問いかけていた。

◆トムの瞳は地中海ブルー



監督が表現したかったものは、『禁じられた遊び』と同様に、子どもの心だ、という大嶋説を元に、映画を鑑賞してみた。

1シーンを取り出して、こうだと言えないくらいに、作品は一つになっている。
中でも何どもアップで映し出されるトムのブルーの瞳が映画を象徴しているように感じてならない。 トムを見つめる、様々な目線がある。友人のフィリップ、フレディ、女性のマルジュ、刑事、銀行員、波止場の老人、酔払いのオブライエン‥、 トムの瞳が青い地中海の色を象徴しているとしたら、地中海に照りつける太陽の光が、トムを取り囲む人々の目線だ。

トムが太陽を嫌がるように、人々の目線をトムは嫌ってもいい。しかしトムのブルーの瞳は動じない。見つめ返す。照りつける太陽の光が地中海の海の中に溶け込んでしまうかのように。 殺されたフィリップの彼女であるマルジュの瞳も、ウソを見抜けず、大海に溶けるようにトムを愛してしまう。(映画だからだけどネ)

漁港市場をふらつくトムは、エイの顔や路上に落ちた魚の頭に目を向ける。見ているのか、見つめられているのか。

「太陽がいっぱい」を私流に解釈すれば、「真実を見つめる目であふれている」とでも言おうか。にもかかわらずトムは、大海に浮かぶ船のように洋々としている。トムが(刑事に呼ばれ)浜辺から立ち去った後、海には一艘の船が静かに浮いていた。(記事:いわた)




このページのトップへ

記事は続く>>> 吉田さん 船田さんの感想

このページのトップへ

since 14.Jun.2010  Copyright SCS All right reserved.