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「離苦解脱の道」を考える @ 

『今こそ宮沢賢治を読もう』C 『二十六夜』より  《6月26日》

3.11東日本大震災、原発事故、9.11アメリカ同時多発テロ、自然災害や人災、あるいは殺戮によって不条理な痛みや被害に晒されたとき、その怒り、苦しみをどこに向けたらよいのか、痛んだ心をどう癒せばよいのか…
賢治の『二十六夜』、牛丸先生の解釈と生きる姿を手がかりに、更なる思考を深めてみたい。カフェに参加しての感想文を紹介する。長文ながらじっくり読むと、荒野の向こうに温かな光を感じられるかもしれない。(文中の見出し等は編集者によるもの)

 



やりきれない思いが

宮沢賢治の文章にはこれまでほとんど本気で触れたことがありません。登場人物の名前を奇妙に感じたり、物悲しいとでも言ったらいいのか落ち着かない気持ちが起きたりして、私はそれに耐えてまでしっかり読み込む気が起きなかったからです。

大震災の後の原発事故など、私はつい神経質になってやりきれない思いに時に眠られなくなったりしていたので、「今こそ宮沢賢治を読もう」というタイトルと、病身を受け止めてカフェを続けている牛丸先生の解説を手がかりに触れてみたくなって参加しました。

カフェではフクロウを自分だと思って読んで下さいと促されました。参加したいま一番考えたくなったのは、フクロウの子の穂吉が人間の子に足をへし折られて、その死に際に笑顔であったということです。これは死ぬ間際だから死に方ということになるのか、また私には生き方の一つの現れでもあるように思えることです。

死に際の穂吉の笑顔の意味は

先生の解説で、二十六夜がお月見の一つで願い事がかなうとして民衆の間に広く行われていたこと、小説の背景にある仏教思想を垣間見て、明け方まで月を待ちながら祖先たちが長い夜をどう過ごしていたのだろうか、細い細い下弦の月が、まるで舟の様に夜明け前の暗い空に昇ってくる、月の影が反射で浮かび上がって、きっとクレーターが阿弥陀如来、普賢菩薩や観音様の影のように見えるのかなあなどなど、そんな思いをはせました。

話の内容は、心優しい穂吉が不運にも人間の子に捕まって、逃がされたけれどもその際に無造作に両足を折られたこと、その痛みの中で親元の群れに戻って来ると、大人たちが「罪のないこんな良い子に何をする、仕返しをしよう」と息巻きあるいは悲しみに泣いている。

穂吉は何度も繰り返し聴いてきたお坊さんの話を痛みに耐えながら横たわって聴いていると、ひと月早い二十六夜に大人たちが「南無疾翔大力」と声合わせて唱える中に、月とともに疾翔大力(阿弥陀如来にならって賢治が創作した)とお供の二尊があらわれ、群れの中で命を引き取ったこと、そのとき穂吉は笑顔であった。

和尚さんの話は、怨みを晴らせばまた相手に怨みを生む、フクロウの自分たちが小禽類に対してどんな行動をとっているだろうか、それが今度は人間と自分たちに置き換わったという、そういう繰り返しを断ち切ることだ、という法話。

日常の中にある生きた哲学とは

牛丸先生はさらに、「天声人語」がこの二十六夜を引用して、オサマビンラディンを9.11の報復として殺害したことに対して真の解決にならないという問いかけをしていることや、日野原重明氏の被災地の人たちの心のすくわれ方についてのコメント等も紹介して下さいました。

そうした心の解決の道については、賢治は投げかけるだけにとどめて答えは語っていないことを牛丸先生は指摘して、しかし全員が疾翔大力の様に自分の身命を捨てて他者を救えばいいということでもない、とおっしゃって印象に残りました。

疾翔大力ももともとはどこにでもいる、小さな雀であったそうで、別に悟りを得よう、特別になろうとしたわけではなくて、気持ちが動いて思わず取った行動からそうした法力を備えたそうで、ごくありふれた鳥である雀の、気持ちからの行為とその結果得られた法力に対して名前が巨大でその対比も魅力的でしたが、しかしもうちょっと日常の暮らしの営みの中で心が涵養できないなら、生きた哲学には成りえません。

牛丸先生は般若心経を紹介し、空という思想を特別な修行ではなくて、日常にあるがままに生きる中で心満たされる生き方に解決の道があるのではないかとおっしゃっていました。

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