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講師の大嶋優さん
(関西学院大学フランス語講師)






パトリシアのアパートで
二人の会話は続く。
「俺は死を考えることがある」
という。


妊娠を告げられて自分のお腹の
膨らみを見るパトリシア




「人生最大の野望は?」
「不老不死で死ぬこと」と答える
小説家


警察にミシェルの居場所を密告する








































































原題『息を切らして』―その真意を探る  

〈第18回〉 大嶋講座、わたしの映画レビュー 『勝手にしやがれ』(1959年、監督ジャン・リュック・ゴダール)/いわたたかし


 


パトリシアはアメリカ人の留学生。パリで新聞の売り子をしている。
そこにミシェルが会いにやってきた。


日本で『勝手にしやがれ』と言えば沢田研二のヒット曲
        
映画『勝手にしやがれ』は、その原題を直訳すると「息をきらして」になると大嶋さんが言う。
そう聞いても、どんな映画なのか、ちょっと想像しにくい。
『勝手にしやがれ』は、そのタイトルが一人歩きして、日本では、沢田研二のヒット曲にもなっている。歌の方では、女に振られた男が、女に対して「勝手にしやがれ」と強がる気持ちを唄ったものだ。この歌詞は、映画『勝手にしやがれ』から来ているというから、映画の方もそんなイメージを持ってしまう。

しかし、大嶋さんの解説を聞くと、まったく背景が違うと分かる。そして、映画の真意も間違って伝わっているような気もしてくる。
原題「息を切らして」の真意を探るべく、記者は何度もこのDVDを鑑賞することになった。

まずは、大嶋さんの解説から――


1959年制作のジャン・リュック・ゴダール監督の『勝手にしやがれ』は、ヌーベルバーグの代表作と言われ、その後の映画やアメリカ映画にも多大な影響があったという。ヌーベルバークとはフランス語で「新しい波」という意味だ。映画製作の経験のない若い監督が自ら脚本も手がけ、個人資金で無名の俳優を使い、野外撮影を駆使し、手持ちカメラを回して、俳優に自由な演技をさせる。資金も経験もない若者によるこの手法は、斬新な映像スタイルを生んだ。
フランスの1950年代後半は、文化的芸術的な大変動期で、それまでの形式や常識を打ち破る新しい波が起こったエポックだという。この動向は、映画界に限らず、思想、文学、美術の分野にもあった。
思想面では、マルクス主義が衰退し、サルトルの実存主義が現れるが、どちらも社会を変えてくれる思想ではなく、それらに代わり構造主義が台頭し始める。
1958年はド・ゴール大統領が誕生し、それ以降今日まで「フランス第五共和制」といわれる政治体制が続く。大統領が強大な権力を一手に握り、中央集権的・管理社会の始まりでもある。それ以前からの社会に対する鬱憤・不満が、左翼系の知識人や若者達の間に強まっていた時期で、その管理社会をどう打ち破るか、という中に、『勝手にしやがれ』が非常に大きなインパクトを与えたという。

この映画に、社会からの束縛や圧力に対して何か突破口を開こうとした制作意図があったとすれば、見る目も変わってくるだろう。

そして、映画は――

あまり展開しないストーリーに男女間の禅問答のようなすれ違う会話。モノクロ映像にジャンプカットと言われる継ぎ接ぎの画面…。やや退屈もする。しかし、その結末は、私たちに向かって何か、突き刺すような衝撃が走る。映画が投げかけるメッセージだろうか。退屈と感じる部分は、若者たちの鬱屈とした心境、やり場のない気持ちなのか、その長い助走の末のラストシーンは高いバーを一気に飛び越える。
「あなた!あなた自身はどうなの?」(とでも言っているような)
そんな迫るような問いかけと怒りや悲しみともちがう、やりきれない感情が引き出される。まさに映画ならではの効果だと感心した。


「勝手にしやがれ」が社会に対して主張しているのだととしたら、
社会のモラルやルール、権威・権力から自由であれ、と反社会的な行動をとる主人公に象徴して見てしまう。その自由さは、痛快でもあり、憧れる部分でもあろう。「勝手にしやがれ」は、社会に対し、女に対し、あるいは自分に向けて発した言葉のようにも見える。女の行動も自分の気持ちを確かめるために男を捨てて自由を求めていく。

しかし、 「勝手にしやがれ」は、日本人が勝手につけたタイトルで、原題の意味にそぐわない言葉だ。 映画中のセリフで「勝手にしやがれ」と翻訳される言葉があるが、その直訳は、「とっとと消え失せろ」だという。

果たして、この映画の主題は何か、それは、あくまでも直訳「息を切らして」の真意を探ることにありそうだ。まず「勝手にしやがれ」というイメージを捨て去らなければ、見えてきそうにない。

日本語タイトルのイメージを捨てて見る

「息を切らして」が、この映画のタイトルなのだ、と何度も自分に言い聞かせて見ようと試みた。すると、 主人公の違った姿が見えてくる。

主人公ミシェルは、まず、自分に言う「俺はアホだ、アホでなきゃ」。それが開き直りか、元々そうなのか、車を盗み、パリにいる恋人パトリシアの下へと向かう。パリで大金を受け取り、愛するパトリシアを自分のものにしローマへ一緒に行きたいという願望がある。
「車は走らせるためにある。止まるためじゃない」とかっ飛ばす。ここにミシェルの思考がある。まず、物事を決め付け、そうあろうと行動するところだ。
途中、警官に追いかけられ、射殺してしまう。そこからは逃亡者となり警察から追われる身となる。
パトリシアのところにやってきて、自分の気持ちを伝える。パトリシアは、自分の気持ちが分からない。恋は自由でありたいと思う。男に縛られたくない。新聞記者になって自立したいと考えている。社会の中での女の役割や男の野望について小説家に質問したりする。自分の生き方を探るかのように。パトリシアは自身の妊娠が発覚する。相手がミシェルである可能性もあり、ミシェルの誘いに悩むようでもある。
パトリシアは、自分の気持ちを確かめるがためにまず行動を起こしていく。ここがミシェルとは反対のところだ。自分はミシェルを愛しているかどうか。「それを確かめたくて寝たの」という。そしてミシェルの居場所を警察に密告する。「意地悪するのは、あなたを愛してない証拠よ」と、自分のとった行動から自分の気持ちを定めようとする。
そして、ミシェルに、警察が来るから逃げるように促す。

ところが、ミシェルは、もう逃げようとしない。金を持ってきた男に「俺はもう疲れた。シャクだが、あの女が頭から離れない」と本音を漏らす。なんとも弱々しいミシェルになっている。金や自由よりも愛を選んだのか、既に息絶え絶えのところを警察に発砲される。

道路に倒れ、取り囲む警察とパトリシアに、「最低だ」とつぶやく。
自らの手で顔を撫で下ろし、まぶたを閉じる。自分の意志で死を迎えているとでも言いたげだ。

「最低だ」(この言葉は大嶋さんの訳では、「ムカつく」という意味だそうだ)
その言葉が誰に向けられた言葉なのか、恐らく自分自身に対してだろう。警察は、女に向けて「あなたは最低だ」と告げる。
パトリシアは、その時、ミシェルの死を悲しむそぶりもなく、強い意志を示すように、ミシェルの仕草を真似て、その場から颯爽と立ち去っていく。
パトリシア も自分の意志を確信したかのようである。妊娠した子をどうするか、これから自分がどう生きるか。

ミシェルは、愛する女のために命も落とした。息を切らしてまで女を愛した男の生き様。
本当にアホを演じきったとしか言いようがない。
「幸福な愛はない。否、不幸な愛すらない」
「人生最大の野望は、不老不死になって死ぬこと」
途中、様々な言葉が字幕に流れる。
徹底して一途なミシェルを映画の中で見せてくれたような気がする。
愛・自由・幸福、これらは決して交わることがない。


ミシェルの唇を撫でる仕草の意味は?


映画のラスト。パトリシアがミシェルの仕草をする。


道路に倒れるミシェルを警察とパトリシアが囲む。



自ら目を閉じて死を迎えるミシェル。



抽象絵画を見ているようで、見方によって様々な見え方のする映画だ。
映画の主題は、そう簡単には紐解けないだろう。(記事:いわた)

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