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清鈴庵 初釜「芽 出ずる」 《1月22日》

  茶のこころを見つめる 
               

(鈴鹿カルチャーステーション 清鈴庵


1月22日に清鈴庵の初釜がありました。
参加された方々は、それぞれに楽しんでいかれた様子です(参加者の声は最後に掲載)。


主宰する片山さんが、この日の心情を自身のブロクに綴っていたので、それを紹介します。
なぜ茶道をするのか、何のためのお稽古なのか、立って飲んでもお茶はお茶‥
茶道の本質を自己に問いながら、自分と相対する人たちとの心の動きに目を向ける。
様々な思いを重ね、人から人の手を通って運ばれ、作られた品々。
その奥へ奥へと心を尋ねていく姿勢‥ 客人や生徒さんとの心の対話‥
自己を見つめ、自身を知ることは、他者を知ろうとする営み、尊さ‥
儀礼的な心遣いとは違う、
心の通い合い、最上のお持て成しと言えるだろうか‥

以下、片山さんの文章をお読みください。(いわた)




このごろ  ―― 片山弘子



お茶にひきつけられている自分は何をしようとしているのだろう、久しぶりのお稽古日で、小学生から大人まで次々に見える中でふと考えている。ここに見える皆さんは、いったい何に惹かれて繰り返し来るのだろう。



初釜の写真、こんな瞬間を逃さずとらえてくれた中村聡史さんの感覚に感謝ーーーこの笑顔は何だろうと、目が離れない。



お抹茶の缶を初めて空けるときの、香り―――とっても好きだ。
庭の苔をつくろったり、畳を拭いてお茶室に掛け軸をかけ、街を散歩している途中で心積もりにしていた花のところまで出かけたくなる、今日なら椿のつぼみを手折って芽吹き始めた小枝と組んで花入れに生け、香をたいて、お茶を掃いて、炭をつぎ、湯を沸かす。蹲に水を張り、寒いときなので湯を汲み足しておく。


この写真は、初釜の待合の軸「百寿」と蓬莱飾り。炭の蓬莱飾りを今年はしっかりやってみようとした。百寿の軸は、初釜の朝、内藤さんが山科から持参してくれたもの、蓬莱飾りの米は杉本さん、うらじろ・ゆずり葉と青竹は栗屋さん高崎さんの手でそれぞれ里山から届いた。花入れの梅や千両の枝は、広島の隆杉さんの実家から。炭の上に載っただいだいはある若いご夫妻がジャム用に育てていたのが届けられてきた。点前の会記は、秀子さんの小筆の字が美しいと感じて、書いてもらった。








 

いつだったか私のお師匠さんが、冷たい水で満たされた蹲(つくばい)の脇に湯桶を備えている姿を見たときに、
何か感じるものがあって、私もそれを真似したくなった。



もともとしなくてもよいものばかりだが、みんな私が学んできたことで、その中にますます惹かれてやまない、空間やリズム、たたずまい、用意そのものからくる魅力でもあろうし、初釜についてこれでと画いて、実際に整えながら現実的に力のかけ方、配分のバランスをと配慮したり、メインのお茶を十分味わっていただくにはどうしようか、最後はお菓子の詰めをしていくあたりまで、よしこれでいこうと決済していく感覚、美の基準は、私の記憶と私の中から湧いてくる何かが対話しあう、そのやりとりを吟味とも呼ぶのかもしれないが、止まらない、そのときの条件でドンドン変化する、本質はその対話にあるのかもしれない。



対話は一緒に初釜を用意する人とも、またそこに向けてのそれぞれの動きの中にあり、当日の朝を迎えてなお、本番ならではのスタッフ同士の呼吸や、客として訪れてくださった人たちとの呼吸、そうした流れの中で、一席一席止まることはない。それは人間の備えた性質からみて、当たり前の心の動きということになるんだろうか。私はこの引き締まった感じが好きだ。

初釜の前夜は当日の流れをもう一度シミュレーションして、配役を見直したり、役割表を作り直してみたりで、明け方になってから休んだ。ちょっと寝ぼけたような顔になり、失敗。

実際にはスタッフの皆さんそれぞれの受け止めたもので、動き始める。ある人が終わってから、スーッと何事もないかのように7席しましたね、といった。何を感じている言葉だろう。おもしろいな。



利休は、点前について100種の歌を残している(武野紹鴎が最初だのいろいろ説はある)が、その最後にこんなことを言う。

一、茶の湯とはたゞ湯をわかし茶をたてゝ のむばかりなる事と知るべし
一、もとよりもなきいにしへの法なれど 今ぞ極る本来の法
一、規矩作法守りつくして破るとも 離るゝとても本を忘るな

台所、水屋で立って飲んだってお茶はお茶だろうが、何かもとにあるものを求めつつ、はまるでない面白みを感じている。



学びたくなる相手と出会い、その人がやることや、したことで胸に焼き付いているもの、出会いを愛でる、それ自体がもう自分ならではの感覚だろう。

師匠に出会い、彼女の所作や動きに触れたとき、それはそうやるもの、決まっているものというのではなくて、自分の中の何かがひどく惹きつけられ、出会った。蓬莱飾りも、無くてもよいものだが、ここでいま出来ることで表現したくなっている。

湧いてくるものがある。表現力経済力ではお師匠さんには及びもつかないが、彼女を通して彼女を遥かに越える美の世界の方向に何かを感じて、すべて心の中の作業だけれど、その世界に向けて対話する。



なにをやろうとしているのかな、こんな初釜を経てまた、今日のお稽古に私を先生と呼び訪ねてきてくれる人たちの、心がそこにあって、私がいま座っていることにきがつく。 (片山)


参加者の声より

久しぶりに落ち着いたゆったりした気持ちになれました。日々子育てに追われているので、たまにはこういう時間を作っていこうかな?って思いました。(四日市市・30代・女性)



長いことお茶をしてなく、ほとんど、忘れていましたが、気楽に楽しめれてよかったです。(鈴鹿市・女性)


   
気楽に本格的なお茶席が味わえて楽しかったです。子どもも一緒に入れる席があるのはいいですね。来年は娘二人も連れて来ようと思います。お茶会はほぼ15年ぶりでしたが、たまにはこんな時間もいいなと思いました。(鈴鹿市・女性)



前々日になって思いがけない演奏の申し出に、びっくりしたり喜んだり。朝9時〜夕方4時まで、ほとんど休まず演奏され、お稽古三昧で満足したと言って西宮まで帰って行かれた。


初参加でどきどきしましたが、Sさんに案内していただいたり、片山先生のゆったり、楽しいので、ありがたく、愉しいひとときでした。お琴の演奏も身近にきいて、よろこび、祝福の時でした。(鈴鹿市・70代・女性)


(写真・中村聰史)

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